決定論には与しない

加害者にも事情はある。それは確かだろう。

ユキ:
たとえば、犯罪者と同じ境遇で育ち、同じような経験をしたとして、自分が同じ犯罪を犯さないという自信がありますか?

ace :

オウムの信者・幹部ほとんどが、裕福な家庭育ちです。
お勉強ができるとチヤホヤされ万能感を持って育ち、世の中の汚い部分に過剰反応し、魂の楽園を目指しオウムへと進みました。

汚れた社会を浄化してやると、官公庁の密集する霞ヶ関駅に向かう電車をサリンで襲撃しました。
そのほかにも都合の悪い人間はためらいなく殺すという思考。

>犯罪を生んだ世の中の背景も考えなければ意味がありません。

これは上祐が新団体を立ち上げる理由と同じですね。ただし彼には問題解決の能力はない。

被害者・遺族の多くは全貌解明と解散を望んでいる。
上祐に世の中の建て直しなど望んでいない。まだ意識不明の被害者もたくさんいる。僕の遠縁の女性もそうだ。

僕は許さないし、逃がさない。

naucica_cpp :

決定論という奴ですね。予定説ともつながる。
これを敷衍すると、あらゆる世の不幸は、予め決定されたもので、逆らうことはできない、人間に自由意志はない、という事になります。
どんな悪いことをしても、怠惰なままでいても、それはあらかじめ決定されたことなので、仕方ないじゃん、という理屈になります。

まあ、この理屈を否定するのは難しい。そうすると、こうして私が上祐さんを批判するのも予め決定された物なのかも知れません。ただ、これを主張すると言うことは、人間の怠惰を助長し、反省の心を奪う事につながりますよね。

ところで、私は上祐さんと同じ育ちをしても、怪しい教祖様にマインドコントロールされない自信は大いにあります。
親が言ってくれなくても、人間物心ついて、学校にも通って、という段階になったら、やって良いことと悪いことの区別くらいつかなきゃいけない。そうでなきゃ相当情けないですよ。

私は決定論には与しません。人間の自由意志の力を信じます。

aceさん、あなたが上祐を批判する動機にそうしたことがあったということは、ちょっとショックです。aceさんの批判に説得力があるのも当然ですね。